東邦電力(其の一)七宗発電所(岐阜県白川町)

「報償契約」とは、電力会社などの公益企業と市町村の間に結ばれる契約で、電力会社は市町村に報償金を納付し市の監督を受ける一方で、市町村は電力会社の特別な地位を承認し、電力会社に道路などの公共用物の使用権(電柱の敷設など)を認めるもの。
名古屋電燈では以前名古屋市と結んだこの報償契約の改定交渉を進めていたが失敗、さらに電源不足によって渇水期となる冬期には”停電勝手放題”となっていた。このため、同社を率いていた福澤諭吉の娘婿の福澤桃介社長への批判が高まっていた。

そこで福澤社長は虚に出た。大正10年4月28日に名古屋市で開催した同社臨時総会において、奈良市に本社を置いていた「関西水力電気」と合併して解散する件を可決し、9月14日に逓信大臣の認可を得た。そして10月18日に、奈良市において福澤桃介らが出席し臨時総会を開き、同日をもって合併し、社名を「関西電気」へ変更することを可決した。さらに三ヶ月後の12月13日に開催された関西電気の定時株主総会において、福澤社長が辞任し、代わって福澤の息のかかった九州電燈鉄道社長・伊丹彌太郎が社長となり、副社長には松永安左エ門が就任した。

さらに翌大正11年5月31日に福岡市に本社を置く「九州電燈鉄道」と合併して、6月26日に「東邦電力」と社名を変更した。こうした複雑な経緯を辿り、誕生した東邦電力の供給エリアは、東海、近畿、九州の一府十県にわたった。本社は東京市麹町区丸の内にあった東京海上ビル内に置かれ、のちに「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門が目指した東上作戦の最初の一歩を踏み出すこととなった。
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△絵葉書 東邦電力 「対岸より見たる七宗発電所」
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△松永安左エ門

実質的に松永副社長が率いた「東邦電力」は、電源の拡充と発電原価の引下げを図るため、「水火併用方式」を掲げ、まずは水力開発に重点を置き、長良川発電所(美濃市)、木曽川発電所(八百津町)に続く大型開発の地点を岐阜県の飛騨川に求めた。飛騨川筋に水利権を確保していたのは岐阜市に本社を置いていた「岐阜電気」で、後にこの水利権は「岐阜興業」へ移っていた。このため、松永副社長は大正11年8月に「岐阜興業」を傘下に収めて社名を「岐阜電力」として、大正11年11月に比較的工事が容易な岐阜県加茂郡西白川村(当時)で「七宗発電所」の建設に着手する。
当時は、高山線は開通しておらず資機材運搬に困難を極めたうえ、関東大震災によって主要機材を製作していた芝浦製作所が被災して納入が遅れ、計画より1年4ヶ月遅れて、大正14年10月に「七宗発電所」は完成する。水車は電業社製、発電機・変圧器は芝浦製で、有効落差は16.09㍍で、出力は計6,000kWを誇った。
この岐阜電力は大正15年10月に東邦電力に吸収され、七宗発電所も東邦電力へと引き継がれた。

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△絵葉書 東邦電力 「七宗発電所 発電機(二千キロワット 三台)」








    

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